終戦記念日に
今日は終戦記念日。
歳はとっていますが、私は戦争を知らない世代です。分かったようなことを言えるはずもありません。正直なところ、どんなにテレビで映像を見ても、書物を読んでも、完全にその悲惨さを知り尽くすことはできませんし、理解することはできないのだろうと思います。また、私にとって、自分が経験していないことを、理解して共感するというのは、かなり難しいことです。
ただ、子どもの時に何度も聞いた家族からの話は、思い出します。今でも多くの人は、自分の両親や祖父母からの体験談を聞いたことがあるのではないのでしょうか。多分、自分にとって大切な人や、身近な人の体験談というのは、共感に大きな効果があると思います。
亡くなるまでずっと同居していた私の祖父は、明治の生まれでした。戦時中は憲兵として満州に。終戦と同時に、捕虜としてシベリアで抑留生活を強いられたそうです。目の前でたくさんの仲間を失い、全く人間扱いされなかったということを言っていました。そのときのことは、あまりにもつらかったのでしょう、ほとんど話してはくれませんでした。ただ、右手の中指と薬指の間の付け根に、銃弾を受けた跡が残っていました。敵軍に向かって馬上で振りかざした日本刀を握る手に受けた銃弾だったそうです。幼い私と弟はその傷を見ながら、”痛かった?血が出た?”と、祖父に何度も何度も聞いた記憶があります。祖父はシベリアでの厳しい抑留生活の間に肺結核にかかり、肺の半分の機能を失い、奇跡的に生きて帰国できたものの、亡くなるまで寝たり起きたりの生活でした。そんな苦労を微塵も感じさせない、本当に優しい祖父でした。その祖父の手の銃弾の跡は、もう今は見ることはできません。
父や母は、戦中戦後の日本の貧しい時代に子ども時代を過ごした世代です。戦時中には兄弟を何人も栄養失調で亡くしたと聞いています。戦後すぐの小学校時代、お昼になると、クラスの中の裕福な家庭の子どもはお弁当があったけれど、貧しかった私の両親や何人かの子どもたちはお弁当がありませんでした。お弁当がない子どもがいると、お弁当を持っている子どもたちが食べにくいので、お弁当がない子どもは外に出ているように先生に言われていたというのです。毎日お昼になると、”おまえらは、外に出とけ!”と外に出されて、教室の方を眺めながら、”腹が減ったな~”と友達同士慰め合って昼の時間が終わるのを待っていたというのを聞いて、ショックを受けました。私と弟は、”先生たちはお昼ご飯持ってたの?”、”誰も分けてくれなかったの?”とこれまた何度も両親に聞いたものでした。このような体験から、親たちは、愛する我が子に惨めな思いはさせたくない、不自由な思いをさせたくない、と余計に強く思いながら私たちを育ててくれたのでしょう。親になった今だからこそ分かります。
私は恵まれた時代に生まれ、祖父や両親の話とは全く無縁で生きてくることができました。そんな親たちの血のにじむような努力のおかげで安心して育つことができましたし、ときにそんな親たちの言うことを、口うるさいと思いながら育ちました。けれど、私たちには想像することすらできない、苦しい時代に生まれ、その時代、自分たちではどうしようもないその環境で生きるしかなかった人たちの、その言葉の奥にある思いを、もっと早くに受け取る努力はできたら良かったと、今更ながら思います。
過去があるから今がある。多くの先人たちのおかげで今日のような素晴らしい時代を迎えられています。私自身は戦争を経験していなくても、多くを知り得なくても、自分が親や祖父母から聞いた過去の事実や書物などから知った事実を通して、ただ戦争というものが引き起こす恐ろしい悲劇があるということを今の子どもたちに話していけたらと思っています。身近な人たちのリアルを聞いて伝える、ただそれだけでも、戦争を知らない自分なりにできることがあると思います。子どもたちと同じ、戦争を知らない時代の一人として、子どもたちと同じ目線で謙虚に学び、子どもたちの平和のために少しでも役に立ちたいです。そして、子どもたちの心の中に、平和の気持ちを育むためのお手伝いができる、子どもたちの良き先人でありたいと、終戦記念日の今日、改めて強く思いました。
両親に昔の話を聞くため、来月あたり、久しぶりに実家に帰ろうと思います。